宮崎県の県民性についての文献

宮崎県の県民性についての文献
1 浅野建二校注『人国記・新人国記』岩波文庫
日向─当国の風俗は、無躰無法の事のみ多く、只気の尖なるに任せて、己が理とみる時は、非と云ふ人ありといへども、曽て用ひず。只その理非は第二にして、その談ずる人と口論に及び、終に討ち果すの類なる風なり。誠に偏卑の浅ましき事、人倫の道理を知らざること、歎くべき所なり。唯死するを以て善とする事、危ふき風俗恐るべし。按ずるに、当国の風土、海浜多く、又山中深き大国なり。尤も暖気多し。

2 『日本人の性格』─県民性と歴史的人物─ 社会心理学者宮城音弥
宮崎は躁欝質帯のうちでも、滋賀、大阪とならんで躁欝質の特徴がいちじるしい県であり、分裂質は少ない(分裂質では滋賀は全国最下位であるが、宮崎は下から二位、躁欝質では滋賀が一位、宮崎は三位)。躁欝質であり、いくぶん強気の要素もあるが、温和型であるため、積極的にがめつさを発揮せず、仕事に夢中になったりすることがない。現実に適応するという意味で合理的であり、また、都会的でないにもかかわらず軽快である。愛媛県の子規や虚子に相当する文人は、宮崎では旅と酒を愛した歌人、若山牧水であろう。彼には変人といったところがなかったし、その旅は放浪ではなかった。酒は酔い狂うために飲むよりも、気分と味を楽しんだ。「白たまの歯にしみとおる秋の夜の酒は静かにのむべかりけり」という有名な歌の示す通りである。子供時代に投書少年であった彼は、早稲田大学に入学して『新声』歌壇の選者をしていた尾上柴船を訪れる。こうして、きわめて順調に地位をきずき、自然主義の傾向を取入れた新しい風潮を歌壇にふきこんだ。二七、八歳のころには、躁欝質の人間に、ときにみられるように、気分の波が憂鬱に傾き、『死か芸術か』や『みなかみ』のような作品を生んだ。だが、中庸で、平静で、おおらかな作品であって、分裂質者にみられる鋭さや冷たさがない。自然主義的傾向といっても、分裂質の場合には悲愴であり、熱情的であり、また、極端に主観的であって主観を通した自然ではなかった。東北出身の分裂質の歌人、啄木、茂吉と比較すると、その印象のちがいが明らかになるであろう。二〇歳ごろには青春の喜びと悲しみを感傷的に歌っているが(『独り歌える』『別離』)、三〇歳の『砂丘』以後は、旅を中心に自然を歌い、淡々たる感情を表現している。

     宮崎県の県民性
       気質・・・躁欝質 てんかん質
       性格・・・わずかに強気
       特性・・・とっつき易し 消極的 従順 合理的 軽快 誠実

3 『県民性─文化人類学的考察─』 文化人類学者祖父江孝男
同じ九州でも、宮崎となると、他の諸県とはどうもいささか違うようだ。ここでは積極性とか熱情性といった面が姿を消してしまって、「消極性」という特質が、だれによってもかならず指摘されている。一方ではノンビリしているという特色もあるから、この点は長崎あたりに似てくるのだが、九州にしては珍しく「弱気」とか「怠惰」などともいわれている。それというのも、長いこと隔離されて孤立し、文化的にも低いところにおかれていたからだと解釈されるが、文化的に遅れていても、東北のようにそれを気にして、劣等意識をもつことはないようである。

4 『県別性格診断』 河出書房新社編集部編 「宮崎県」担当岩永兼密(宮崎日々新聞社所属)
「一生で一度しか嘘をつけないおおらかで正直な農業型」「宮崎県民性を醸成してきた文化的環境は南方性ということができよう。特性として素直で非排他的ながら、消極的、ひっ込み思案型、楽天性とまとめることができる」県民性の諸特性は「寒冷地と対照的に、年じゅう高温多雨の気候によるものに違いない」と風土に規定され形成された。わが国に孤児院を初めて設立した「孤児の父」石井十次の業績を紹介している。

歴史的側面からの県民性の考察

藩政をみると、県北部を治めた内藤、県中央部に位置する高鍋・秋月、南部に日南飫肥の伊東、さらに西部が都城の島津、宮崎市は天領と小藩分立の形態をその特徴としていることを指摘前述の石井十次は高鍋出身であり、また古くは同じく高鍋の出である上杉鷹山(米沢藩主)の人となりが信頼を第一主義としたものであった宮崎県民性の一つである正直に起因するとしている。小村寿太郎は日南飫肥藩の出身であり、正直外交に徹したのも、宮崎県民性の一面をよく表しているとする。宮崎の県民性を農業型であることを提唱し、その事例として豊作祈願と同時に神と人の一体の舞である天孫降臨をかたどった夜神楽をあげている面を捉えている。

5 『九州の精神的風土』 高松光彦
「日向的台風メンタリティー」
地勢的には単調であっても季節的には必ずしも単調ではない。台風常襲地帯で、六、七月より九月頃までは、大小の亜熱帯性低気圧が襲来し、強風、降雨をもたらす。迅風は病葉を飛ばすが、人びとの営々たる努力と成果をも一瞬にして水泡に帰する。人びとは、これを天の意図する宿命として、しばしばこの自然の猛威への対応を断念放棄する。対応を断念はするが、豪雨は山間の肥沃な土壌を洗い流し、流れきった沃土は沖積平野を再び沃土で覆い、豊沃なる農業地を再生し、種さえ蒔けば、高温多雨な風土はふたたび多種多量の農産物を恵む。自然の試練は、試練とならず、諦めと忍従、怠惰と投げやりに流れる。これにつづく自然の恵む復原は精励を必ずしも必要としないことを知るのである。このしたたかな宿命観を「日向的台風メンタリティー」という。「日向ぼけ」と評される所以である。日向市地方を中心とする宮崎県北部に残っている俗諺がある。「富高で喧嘩するな(喧嘩腰出すな)」「富高の天領民を相手に喧嘩すれば、江戸幕府直轄領(代官府)の住民は幕府直轄領の権力を笠にきて傲慢で気位が高く、代官府の役人は領民に非があっても、必ず、領民側に軍配をあげた。天領民が他領で盗みを働いても、届けを受けた天領役人は、かえって、被害者領国の政治、治安の不行き届きを非難したともいう」「宮崎県人の忍従、権威に対する気おくれは、このような歴史的、精神史的な環境にも原因がある」「美々津で唄をうたうな」「美々津港には上方の大型船舶が常に停泊し、美々津下町は問屋に出入りする商人や上陸した船乗りで賑わった。その結果、上方の最も新しい歌謡曲(流行歌)が持ち込まれた。日向社会の山間、僻地から出てきた田舎者が、したり顔に流行歌を唄っても、軽蔑を招くだけであるというのである(当時より日向社会は九州には背を向け上方に目を向け、近畿経済圏の一員としての意識が濃厚であった)。「高鍋で学者ぶるな」「高鍋はその中心として学問の栄えた都市であり、高鍋藩はわずか三万石の小藩でありながら、産業を振興し藩治の実をあげるために子弟の教育に力を入れ、早くから藩校を設立した。高鍋を訪れた他領民が、一知半解な学問をひけらかすと、忽ち、馬脚をあらわし笑いものにされるというのである」。

6 方言からみた宮崎県の県民性
○『日向の方言』 石川恒太郎
「まえがき」「日向の国すなわち宮崎県でも、北部と南部、山地と海岸ではかならずしも同じではなく、だいたいにいって北部は豊後、西部は肥後、南部は薩摩の言葉の影響が大きく、諸県地方はおおむね鹿児島藩だったから薩摩とほとんど同じであるが、串間市のごときは鹿児島県に接していても高鍋藩だったから鹿児島の影響はほとんどない」。「江戸時代中期(延享四年=一七四七年)に来県した延岡の内藤藩の家臣たちは、その前住地の磐城平(福島県)との関係が深く、日向では特殊な延岡の家中弁(かちゅうべん)をなしている」

○原田章之進編『宮崎県方言辞典』
よだき①大儀だ。いやだ。したくない
「こんげ暑いと何をすっともヨダキ」
「使いに行くとがヨダキイもんじゃき宿題のなんのちゅうかり」全県的。
②いやな。困った。厄介な。
「ヨダキイ奴ぢゃ」「ヨダキイ相手ぢゃ」日向地方。
よだきごろ(怠け者。おっくうがりや)。よだきぼ(怠け者。無精者。)。よだつごろ(よだきがる者。怠け者)。

○『よだきぼの世界─宮崎の社会学的プロフィール』 社会学者小川全夫
「よだき」という表現形式は、異質なるものとの対話と出会いの場である世間 (そこは「する」論理がもっとも働かされなくてはならないところである)においては、用いることはできず、感情の自然主義が支配する内輪において用いられることが多いのである。「よだき」とは、子どもが、「いやいや」をする仕草と同じように、快・苦の原則に限りなく近い表現形式であって、むしろ、うめき声に近いのである。
「人間関係とよだき」
人間のパーソナリティを表現するに際して、「よだき奴じゃ」というような用い方をする場合、その人間はつき合っていて、つき合いたくなくなるような人物であることを示そうとしている。そして、その表現は、相手の属性について直接特徴を指摘するというものではなく、あくまでも自分が持つ感情を言い表すことによって、間接的に相手のパーソナリティを表現しようとするものなのである。どのような場面においても、状況に対して結合を要請されながら、分離へ傾斜していく時に、宮崎の人びとは、「よだき」と一声叫べば心の葛藤は雲散霧消してしまうのである。もし、「よだき」という発語状況に似た状況がありながら、「よだき」という表現形式が与えられていないような社会では、「やりたくないね」とか、「いやだよ」という表現形式を用いることになるし、それではあまりにも拒絶反応が直接的すぎて、人間関係を損ないかねないだろう。その点では、宮崎県で「よだき」という表現形式が、人間関係の緩衡帯を用意しているといえるだろう。否定的、消極的、非妥協的行存から生ずる人間関係をできるだけ緩和する言語行為として、「よだき」という方言のもつ意味・機能は、共同体での日常生活にとって重要であることがわかるであろう。
「よだき精神」の形成
(1)宮崎の気候風土は、二つの特色を持ち合わせている。
「高温多雨晴」(南海型気候区)と「台風」といった「自然の実り」と「災害」と同時に有しているため、自然の「なる」論理に対して、人間の「する」論理は貧弱であったこと。
(2)「関西や関東」を中心とする歴史の過程の中で僻地に位置し、運命づけられ、「社会に変化が、いつも外生的であったことも、「なる」論理の絶対的な優位性を生み出したといえる。そこでは、「する」論理は成熟しないのである。こうして、何かをすることが「よだき」という基本パターンが成立する。という風土と歴史の二面から県民性(ここでは「よだき」)の形成要因を考えている。
(3)藩政体制当時から不熟であった都市が、明治以降、支配都市として中央集権的な行政末端組織化してしまったことや都市の商工自営業主層が自生せずに、
遍歴者(外来者)の土着によったため、局地的市場圏の成立をみないままに、全国的な市場圏に組み込まれたことは、「よだき」精神の突破口を覚醒させずにおわってしまった。
こうした明治以降の宮崎の近代化の特殊性を背景にして「よだき」は維持・存続してきた。「原則的には現状を否定し、不振と反撥をうちに秘める」「不振とあきらめを含んだアンビヴァレンスが『よだき』という精神的態度を形づくってきたのである」「こうした鬱屈した状況というのは、人間を不機嫌にせざるを得ない。それを回避するためには、常に何かを企てて自己実現を図るか、あるいは日常的な表現形式を確立するかいずれしかない。宮崎県民はその後者を選んだといえる。それがまた、宮崎の県民性を躁鬱気質の穏やかなものにつながってくるものである」。

二 意識調査から見た県民性

○『全国県民意識調査』(NHK放送世論調査所編、昭和五十四年版)
宮崎の県民性に関連するもの(調査時期.昭和五十三年三月四~五日)
(a)全国一高い宮崎県への愛着
「この県が好きだ」という人が全国で最も多く、「県人だと思う」人も全国三位で、県への愛着が極めて強い。
「土地のことばがすきだ」(二位)
「地元の面倒をよく見る政治家をもり立てたい」(一位)
「地元の行事や祭りには積極的に参加したい」(五位)
など、地元に対する意識が強いのも大きな特徴である。
    「今住んでいる所は住み良い所だ」と思っている人も全国二位。

(b)伝統主義と新しがりや
「生活の心配がないとしても働きたい」(二位)
「昔からのしきたりは尊重すべきだ」(二位)
「自分の親を手本に生きてゆきたい」(四位)
など、伝統的な美徳、価値を尊重する気持ちが強い。

「新しいことを積極的に取り入れたいほうだ」と考える人が九州では宮崎だけが多く(二位)
「東京には魅力がある」(六位)
     宮崎県民の新しがり屋の一面を表しているようだ。

(c)親密な人間関係
人とのつきあいは親密で、信頼感が強いのも宮崎県民の特徴である。職場や仕事関係の人を仕事以外でもつき合うことが多い人が全国で最も多く、「仕事でつき合う人は、信頼できる人が多い」という人も全国で二番目に多い。「日ごろつき合っている親戚は多い」(四位)「近隣所の人とのつきあいは多い」(六位)など、極めて親密な人間関係がみられる。

(d)うすい男尊女卑の思想
男は女よりすぐれている」と考える人は全国で四〇位で少ない。全国一少ない沖縄をのぞけば、西日本では男女の差別感が最もうすい。しかも「今の世の中では、女は差別されていない」と思う人は沖縄が三六位で少ないのに比べ、宮崎は八位とかなり多い。沖縄では「現実には女に差別されている」と考える人が多いのに比べ、宮崎では男女平等の思想をもち、「現実にも女は差別されていない」と考える人が多いのが特徴である。

(e)ウソにきびしさ、あつい宗教感情
「ウソをつくことはどうしても許せない悪いことだ」と考える人が、
    山形に次いで全国で二番めに多く、ウソにきびし土地柄である。

(f)宗教的心情にあつい
宗教的な心情があついのも宮崎県民の特徴である。「神様や仏様に願いごとをするとかなえてくれそうな気がする」人が全国で二番目、「祖先には強い心のつながりを感じる」人が全国で三番目に多い。また仏教を信仰する人も多い(一〇位)