宮崎県民俗研究の歩み

以下の文章は平成11年に刊行された『宮崎県史 別編 民俗』の草稿です。検索用に公開します。引用の際には原本を確認して下さい。

宮崎県民俗研究の歩み
第一節 宮崎県の民俗研究
1、宮崎県の民俗研究史
 宮崎県に関する民俗学研究に関しては、常に論考の冒頭には「民俗学発祥の地」であるとか、『後狩詞記』のことに触れられるが、その後宮崎県における民俗研究がどのように進んできたかについて触れられたものはなかった。本節では、宮崎県における民俗研究がいかに取り組まれてきたかについて研究史を整理する。


(一)県外研究者の調査
 宮崎県の民俗研究は常に県外の研究者が主体に進んできた。それは日本民俗学の生みの親である柳田國男が初めて民俗調査を行った地であり、それをまとめた『後狩詞記』という書のもつ魅力が、奥日向への幻想をかき立てたのであろう。次々と椎葉村をはじめとした宮崎県の山村へと研究者が足を運んだ。


【柳田國男】
柳田國男が宮崎県へと視察をかねた調査に入ったのが、明治四十一年(椎葉村他)であった。その経験は明治四十二年に刊行された『後狩詞記』にまとめられ、日本民俗学構想の一歩を踏み出したのである(詳細に関しては次項「  」を参照)。柳田國男が法制参事官として宮崎を訪れた様子は、『九州日日新聞』や『鹿児島実業新聞』に取り上げられている。『日州新聞』にも記載されているはずであるが、その時期の新聞が県内の図書館・新聞社に保存されておらず確認することができない。ここでは『九州日日新聞』より柳田國男の動向を見ていく。


『九州日日新聞』(明治四一年六月一六日、二頁)
●柳田参事官談片(人吉に於ける)
柳田参事官は去十三日人吉着鍋屋旅館に投じ十四日午前人吉城址其他を観午後一時より人吉二ノ町本願寺別院に於て人吉町民が汽車開通を歓喜する中に不祥の言をなすは祝言の場に経読む嫌あるも便利と弊害は伴う者なる事を深く留意せられたし子が見聞の実体によるも汽車通ぜし為め職業を失うもの又は衰頽を来す町村は決して尠少ならず往来頻繁になれば旅客より金を取る工夫すると云う者あるも是等は確実なる繁栄策にあらず基礎の確たる繁栄策はドウしても生産力を増すの一事に帰す根本を固めず一時的の浮薄なる旅人相手に大計をたてん等の考えのみにては鉄道延長も単に便利になりしと云うのみにて恐らく空喜びに帰せん宜しく利害得失を研究して永遠の賑殷を計られたし▲生産業も各自区区別別にては発展緩るし組合を設け共同して製作し共同して売出すべし予は共同は道徳の一なりと信ずるもの也而して生産品は可成原料も労働者も土地にて得らるるものを撰擇すべし又産業組合は十年以前より奨励し法律もあり完全なる講義書の如きも出でをるに害虫駆除等の如く当局者の命令を待つなどは甚だ遺憾なり利益を認めば進んで組織すべき也、
▲球磨郡は僅の瞥見にて将来の方針等は無論判断出来ざるも諸君は多年此地に住し情況を審にせらるるなれば一定の方針講究せられたし中央政府の法律は普遍的のものにて勘案方針亦何所にも当てはまらるるものなれば気候其他の関係上より起る適不適は県の公共団体にて取捨せられたし然るに仮之漆植栽の利を県技手が話せば直に漆を植え樟の奨励をせば又漫然楠を植う如きは大に避くべき事たり其始めに於て十分の見当を定め土地に応じたるものに限り盛に手を加うべし雑駁に過ぐは発展を阻害するもの也云々と大要右の如き講話をあり十五日よりは五木多良木を廻り更に一勝地を経て鹿児島に向う筈なるが周く通知なかりし為め聴者僅三四十名なりしは遺憾なりし、


『九州日日新聞』(明治四一年七月一二日、二頁)
●宮崎電報(十一日)
柳田参事官 柳田法制局参事官は一昨夜来宮昨日は郡会議事堂にて農政経済に関する講話を為したるが本日は西臼杵郡視察の為め本県技師渡部、平野、吉田の三氏を同行同地に赴けり

『九州日日新聞』(明治四一年七月一四日、五頁)
●宮崎たより
柳田参事官 法制局参事官柳田國男氏は西臼杵郡地方視察の為め本県技師渡部豊、吉田登、平野篤夫の三氏と同伴今十一日より当地を出発せり

『九州日日新聞』(明治四一年七月二一日、五頁)
●宮崎通信(十八日)
「柳田法制局参事官 目下西臼杵郡地方視察として出張中の法制局参事官柳田國男氏は明後十九日熊本県馬見原に出で夫れより三田井、延岡を経て土々呂に引返し二十三日頃同港より乗船大分県へ向う筈なり」

『九州日日新聞』(明治四一年七月二六日、五頁)
●宮崎通信(二十二日)
「柳田参事官の一行 西臼杵郡地方視察及び椎葉山探検として過日当地を出発したる柳田法制参事官、渡部、吉田、平野■県技師、桑原属の一行は十九日椎葉山中胡摩山の峻坂を越えて馬見原に出で二十日一行は二手に分れ吉田、平野の両技師は七ツ山方面へ向い柳田参事官、渡部技師、桑原属は三田井町着二十一日渡部技師は小山郡長と共に七ツ山又は塚原に於て吉田、平野の両技師と会同すべく柳田参事官は桑原本県属と共に大分県竹田へ向える由」

【折口信夫】
 折口信夫は旅好きで、生徒らを連れて、各地を旅している。九州へは大正二年に、生徒梶喜一を連れて旅行している。大正六年には九月に九州旅行し、無断欠勤が一か月に及んだため、その年一月に教員として勤めた私立郁文館を免職されている。翌年大正七年八月、雑誌『土俗と伝説』を編集発行しているが、その雑誌に、大正七年十月、十二月に伊勢清志の名で「日向通信」という原稿を寄せている。伊勢清志は中学校教師として教えた門弟の名であったが、ここでは折口の筆名であったとされている。(池田弥三郎『日本民俗文化体系2 折口信夫』講談社)

 「日向通信」(『土俗と伝説一ー三』大正七年十月)には、「景清の目球」「一息神」「大人弥五郎」「新しい村」「豆腐屋」「八朔七夕」「戎の祠」の項目が挙げられている。
 「日向通信」(『土俗と伝説一ー四』大正七年十二月)には、「ひしゃくこ」「檍原明神」「矢大臣・左大臣」の項目が挙げられている。

【早川孝太郎・桜田勝徳】
 昭和八年十一月、渋沢敬三のすすめで九州帝国大学農学部農業経済研究室の助手となっていた早川孝太郎は、小出満二教授に農学を学んでいた。昭和九年、当時同大学の長沼賢海の蒐集した古文書の整理などをしていた桜田勝徳とともに、二、三月にかけて、阿蘇から肥後・日向の山間部を跋渉した。
 その時の調査の様子に関しては、桜田勝徳が「肥後めぐり」「椎葉紀行」として「大福帳」に記された内容が『桜田勝徳全集』に収められている。
 

「肥後めぐり」(『桜田勝徳全集■』)では、昭和九年二月十五日から十九日までの調査のなか、十六日に西臼杵郡鞍岡(現在五ヶ瀬町)に泊まり民具及び狩猟の調査を行っている。
〈二月十六日〉農具数種、足中の鼻緒の結び方の種類、足中の製作、日肥の国境、鞍岡村の本郷へ、水流、荒谷にて、物名、道の上の奉納物、狩の事、

「椎葉紀行」(『桜田勝徳全集■』)の冒頭は次のようである。
「昭和九年三月十七日朝七時半、早川氏と阿蘇郡高森町に着、直ちに三田井行きの自動車に乗ず。上野村と高千穂町の境にて下車。」

「椎葉紀行」には、項目ごとにメモが記されているので、これを紹介する。
〈三月十七日〉葛原辺り、メンパ、物名、三田井に入る、庄四郎氏談、五ヶ瀬川の漁、田原村河内聞書、
〈三月十八日〉物名、秋元へ、七ツ山越、茶屋、正月行事、カクウチ、臼太鼓、仮面、
〈三月十九日〉七ツ山、鳥の事など、窪という所、仲滝で、横尾にて、十根川にて、上椎葉へ、諸塚山の咄、柿の種類、
〈三月二十日〉那須定蔵の家、物名、椎葉の竈、センボン、椎葉の焼畑、鳥獣防、物名、食物、黒爪の狩犬、盲ナゲシ、小崎の山法師踊、春祭の的射、ヒノトギ、若木、尾八重にて、ケヤグイ、物名、上福良を眺む、村長の咄、正月行事、
〈三月二十一日〉桑弓野、嶽枝尾、与次郎老咄、新橋にて、大河内へ、箱車、神仏の数、物名、マイクモ、恥しい相談、共有山とヤボ、大河内本郷、印類、普請組、シデオリ、燈火と風呂、
〈三月二十二日〉矢立で、湯山へ、人吉に、
〈三月二十三日〉阿蘇登山記、
 また、この年の十月十七日に、鹿児島県の百引村への調査の後に宮崎を訪れており、「豊後の都留」の冒頭にその状況が記されている。

【倉田一郎】
 倉田一郎は、柳田國男と出会い、昭和九年一月に発足した木曜会の会員となり、この会を中心にした「日本僻陬諸村に於ける郷党生活の資料蒐集調査」いわゆる「全国山村調査」に参加している。倉田は昭和九年頃から椎葉村への調査を始めており、「昭和十一年(一九三六)には宮崎県児湯郡西米良村へ入り精力的に調査している」とある(戸塚ひろみ「解説ー倉田一郎、生涯とその業績ー」『日本民俗文化資料集成 第十六巻』三一書房)。

 「焼畑覚書ー日向国西臼杵郡椎葉村ー」『ミネルヴァ(1ー3)』(昭和十一年)。この報告書末には「三・一七」とあり、昭和十一年三月十七日に報告をまとめたと考えられる。
「九州漁語抄ー日向日置漁村語彙ー」『方言 六ー一〇』(昭和十一年)。昭和十一年四月から五月にかけての九州調査をまとめたもので、そのうち宮崎県児湯郡富田村日置(現新富町)の調査は山本広太氏への聞き書きを元にしている。

 昭和十二年に刊行された『日向馬関田の伝承』については最上孝敬が次のような書評を寄せている。
「行ずりの採集では好伝承者の会逅さへ僥幸に期待せねばならないが、たとへ滞在採集の場合に好伝承者を探しあてたとしても、先方を煩はす気兼や方言の障碍があって、充分な聞出しといふものは殆んど得られるものではない。爰に新しき学問の勘所を心得た郷土人自らの採集が最も期待される所以である。しかも一通りの外形について余りに憤熱■するため、内部まで引つける魅力が乏しいのであろう、かやうな郷土の採集は滅多に望めなかった。楢木氏も従来数々の民俗採集を発表して来られたが、氏の郷土日向馬関田島内村ー現在の西諸県郡真幸村島内ーについては、豊富な伝承の伝はってゐるに相違ないと思はれるのに未だ確実にこれに触れたものは殆んど見かけない。この期待して得られなかった郷土の採集が、実は先頃物故せられた先考を通じて近年徐々に進められてゐたのであった。本書はその聞書の整理で、単に先考の好き記念といふ許りでなく、我々にとっても氏の在来の熟れの研究にもまして貴重な好記録である。家と人、祭祀、年中行事、冠婚葬送等数項目に分れたどの一頁をあけて見てもただは看過し難い伝承に出あふのであらうといっても過言ではない。好採集と伝承者とそれに恵まれた郷土と揃った好標本をここに見出すのである。」(『民間伝承三ー六』昭和十三年二)

 このほか「ムラウツイ」『民間伝承三ー六』(昭和十三年二月)、「日向の『木おろし唄』」『文学(八ー一〇)』(昭和十五年)などを記している。

【宮本常一】宮崎県を何度も訪れているにもかかわらず、宮崎県に関する記事は実に少ない。ただ、一編のみ「米良紀行」と題された文を『登山全書・随想編二』(昭和三十一年十月)に寄せている。米良地方の歴史について書かれた概説であるが、米良への調査について次のように記している。

「私がこの山中に足を入れたのは、昭和十五年二月二十二日であった。屋久島・大隅半島・日向南那珂郡と歩いて、いよいよ九州の旅行を終わるべく最後に訪れたのが米良であった。米良についてはそれまで何の知識ももちあわせなかったが、椎葉のほうは早く明治末年に柳田国男先生がおいでになって、この地での狩についての聞書を『後狩詞記』と題して公にせられているので、一度は訪れてみたいと思ったのである。」

 二十一日の晩に杉安に宿泊し、二十二日に銀鏡へと足を運び、三晩も聞き取り調査を行ったことが記されている。
 また、山村の調査に関しては、断片的に『山に生きる人びと』(未来社)に記されている。例えば、椎葉村の塩の道、宮崎県北部に多いサンカ、九州山中の落人村、日向木炭、海から山への定住、山から里へ、九州山中の臼太鼓・念仏踊り、椎葉騒動などについて述べられている。

【本田安次】
 『本田安次著作集 日本の傳統藝能 第三巻 神楽Ⅲ』(錦正社、平成六年)には、九つの神楽が紹介されている。

 「高千穂神楽」については、昭和三十一年七月二十五日から同年八月七日にかけて、財団法人神道文化会主催、高千穂阿蘇綜合学術調査団によって行われた調査への参加に始まる。その際の資料は小手川善次郎の資料を活字にしたものであった。その後、「もし、さうした覺書が殘つてゐるなら、私もそれのなるべく古いものを一見したいものと、高千穂町教育委員會の甲斐清喜氏に豫め依頼しておいて、昭和三十九年八月の九州旅行の途次お寄りした。」その際に用意された資料をもとに筆録したものである。

 「鞍岡祇園神楽」は、昭和三十六年二月に、三十三番のうち十三番の神楽を佐貫正勝宮司らの好意で実演を見学したときの記録である。
 「椎葉大河内の神楽」は、昭和三十九年八月十五日に西米良から入って、椎葉村大河内を訪れ、中竹政蔵氏の厚意により、神楽面や神楽台本の調査を行っている。
 「銀鏡の神楽」は、昭和三十九年八月十四日、西米良に寄った次の日に銀鏡神社の浜砂正衛宮司に説明を受けながら、わざわざ披露された神楽を見学している。
 「西米良の神楽」は、昭和三十九年八月十三日に採訪を行い、田爪末広・浜砂資太郎氏から話を聞いている。
 このほか「天岩戸神社の神楽」「祓川の神舞」「狭野の神舞」などを紹介している。
昭和五十六年度から椎葉神楽調査団による学術調査が行われ、椎葉神楽記録作成委員会の委員長に本田安次(文化財保護審議会専門委員)が当たっている。これは総勢一五名による三カ年に及ぶ大規模な調査であった(詳細は後述)。

【千葉徳爾】
 千葉徳爾は宮崎との関わりについて『みやざき民俗五〇号』に触れている。それによると、昭和十四年四月に旧制宮崎中学校に赴任してきた。郷土生活研究所から送られた山村調査手帳を元にした調査なども試みたが、十二月に東京の野砲部隊に入営し宮崎を離れることとなった。その後、昭和二十五年頃、柳田國男に宮崎行きを命ぜられ、宮崎を再訪することとなる。昭和三十八年冬と昭和三十九年冬に西都市銀鏡に調査に入っている。昭和三十九年に銀鏡神社大祭で神楽を拝観している。こうした狩猟を主とした調査内容は『狩猟伝承研究』(風間書房、昭和四十四年)をはじめとする著書にまとめられている。

【須藤功】『山の標的』(未来社)によると、須藤が宮崎県を訪れたのは、昭和四十四年の十一月初旬の、「高千穂町から椎葉村を経て西米良村までおよそ一三〇キロ、途中バスに乗ったところもあるが、山道のほとんどを一人で歩いた。」(一頁)という一週間の旅であった。その際の最後に西都市銀鏡で会った浜砂正衛宮司との出会いがその後の銀鏡訪問を続けたきっかけであったようだ。浜砂正衛宮司はその時すでに有名人であったという。
「銀鏡神社の正衛宮司の名はよく知られ、遠くから慕ってくる人もいた。学者や研究者も銀鏡地区に来たほとんどの人が正衛宮司をたずね、話を聞いている。そのなかには早川孝太郎氏、宮本常一氏、本田安次氏、千葉徳爾氏らがいる。訪れてくる人とは別に、正衛宮司が願ってきてもらった人もいる。斉藤忠氏、八幡一郎氏、平泉澄氏、倉田一郎氏、岡田謙氏らで、昭和一七年のことである。」

(二)県外からの共同調査
 民俗調査には、個人による採訪と合同調査があり、共同調査の多くは報告書というかたちで調査結果が刊行されるため、地元の研究者にとっては貴重な資料となっている。
 昭和十七年、西都市銀鏡にはいち早く調査団が入っており、これは銀鏡神社の浜砂正衛宮司が「斉藤忠氏、八幡一郎氏、平泉澄氏、倉田一郎氏、岡田謙氏ら」を招いたものであるという。(須藤功『山の標的』未来社)また、昭和二十五年六月には、日向史學會の銀鏡史蹟調査団の一行七名が訪れ、『日向史學 第一巻第四号ー東米良特輯號』(昭和二十九年一月)にまとめられた。

【『高千穂・阿蘇』】
 『高千穂・阿蘇』は、昭和三十一年七月二十五日から同年八月七日にかけて、財団法人神道文化会主催、高千穂阿蘇綜合学術調査団(団長滝川政次郎)によって行われた調査の報告書である。民俗関連の現地調査団員は、「宗教班」として原田敏明(熊本大学教授)、井之口章次(民俗学研究所研究員)、杉本尚雄(熊本大学教授)らが当たり、「民俗班」として今和次郎(早稲田大学教授)、吉町義雄(九州大学教授)、本田安次(早稲田大学教授)、倉林正次(國學院大學研究室)、西角井正大(國學院大学生)らが参加した。ちなみに宮崎県からは小手川善次郎(郷土研究家)、日高重孝(宮崎博物館長)、柳宏吉(高千穂高校)らも参加し執筆している。
 この合同調査の民俗関連に関しては、井之口章次が「高千穂・阿蘇の日録」として『西郊民俗四九』(昭和四十四年七月)に細かく記している。

【國學院大学】
『民俗採訪ー宮崎県東臼杵郡西郷村他ー』(國學院大學民俗学研究会刊、昭和四十年七月一日)は、昭和二六年から國學院大学が現在でも行っている合同調査の報告書である。
 調査代表は井之口章次で、他二〇名ほどの調査者で行われた調査の報告書である。調査は、「夏季共同採訪」といい、昭和三十八年七月十八日から二十三日にかけて行われた。調査地は、東臼杵郡西郷村の中八重、鳥ノ巣、増谷、和田、若宮、八峡、田代であった。内容は大きく「概況」「人の一生」「年中行事」「信仰」で構成され、質問項目を設定して行われた聞き取り調査をまとめたものである。

【学習院大学】
木内義勝「宮崎の山村における生産と生活」『調査研究報告NO.7 環境と地域文化ー農村における自然と人間のかかわりー』(学習院大学東洋文化研究所、昭和五十四年)。聞き取り調査は木内義勝によって、昭和五十二年二月二十三日から昭和五十三年一月九日まで諸塚村にて行われたものである。

【椎葉神楽調査団】
 椎葉神楽は、昭和五十五年十二月十二日に国から「記録作成等の措置を講ずべき無形民俗文化財」として選択された。それを受けて昭和五十六年度から調査団による学術調査が行われた。椎葉神楽記録作成委員会は、委員長が本田安次(文化財保護審議会専門委員)、副委員長が後藤淑(昭和女子大学教授)、委員は武井正弘(宗教芸能史研究家)・山路興造(芸能史研究家)・吉川周平(鹿児島女子大学講師)・萩原秀三郎(民俗写真家)・渡辺良正(民俗写真家)・小島美子(東京芸術大学講師)・樋口昭(埼玉大学助教授)・荒木計子(昭和女子大学助手)・山西鈴子(昭和女子大学助手)・服部まどか(昭和女子大学助手)・石井一躬(横浜翠嵐高校教諭)・板谷徹(早稲田大学演劇博物館助手)・渡辺伸夫(早稲田大学演劇博物館助手)の総勢一五名による三カ年に及ぶ大規模な調査であった。この調査員については「芸能史・民俗芸能・民俗学・民俗音楽・食制・衣服などを専攻する研究者であるが、本田安次の主宰する芸能史懇話会の会員でもある芸能史懇話会は早稲田大学演劇博物館に事務局を置き、二十年来研究活動を続けている研究団体である。この会を母胎として記録作成委員会が構成されていることを付記しておきたい。」と述べられている。

『椎葉神楽調査報告書 第一集』(昭和五十七年刊行)
 「はじめに」、「椎葉の神楽調査と村づくり」、「椎葉神楽調査にあたりて」。本田安次「椎葉神楽総説」。武井正弘「椎葉神楽の現況(下福良地区・松尾地区・不土野地区・大河内地区)」。後藤淑「椎葉の神楽面」。「記録作成にあたって」。

『椎葉神楽調査報告書 第二集』(昭和五十八年刊行)
 不土野地区 板谷徹「不土野神楽」・武井正弘「向山日添神楽」、 大河内地区 渡辺伸夫「栂尾神楽」・渡辺伸夫「嶽之枝尾神楽」、 後藤淑「椎葉神楽面補遺」

『椎葉神楽調査報告書 第三集』(昭和五十九年刊行)
 下福良地区 武井正弘「十根川神楽」・山路興蔵「仲塔神楽」・石井一躬「夜狩内神楽」、荒木計子「椎葉神楽の神饌」、高橋春子「椎葉神楽の衣装」。

【国立歴史民俗博物館】
 昭和五十六年度から昭和六十年度にかけて五年間に及ぶ、国立歴史民俗博物館によって「畑作農村の民俗誌的研究」という共同研究が行われた。調査地三カ所に、宮崎県東臼杵郡椎葉村が選定され、石川純一郎(常葉学園短期大学教授)は、小島美子(国立歴史民俗博物館教授)、湯川洋司(山口大学講師)が調査に当たった。この調査内容は後に『国立歴史民俗博物館研究報告 第一八集 ー共同研究「畑作農村の民俗誌的研究」ー』に、石川純一郎「日向山地畑作農村における村落祭祀」、湯川洋司「里に近づく山ー椎葉村尾前の民俗変容ー」、小島美子「山村民俗音楽誌作成のための試論ー宮崎県椎葉村を例としてー」としてまとめられている。

【山之口文弥節人形浄瑠璃調査団】
 山之口文弥節人形浄瑠璃は、昭和三十六年山之口村(当時)の無形文化財に指定された。昭和四十二年に早稲田大学商学部教授杉野橘太郎が現地調査し、翌年の日本演劇学会秋季大会において発表があった。その後、昭和四十四年に宮崎県無形文化財指定、昭和四十七年に国の「記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財」の選択指定を受けている。
 その指定を受けて行われたのが早稲田大学等による記録作成の調査であった。平成四年度国宝重要文化財等保存整備費補助金の助成を得て実施された本調査は、平成四年六月二十八日、七月二十五日~二十七日、九月十一日~十三日、十一月二十一・二十二日の四回行った。調査・執筆者は内山美樹子(早稲田大学教授)・時松孝文(園田学園女子大学近松研究所講師)・永井彰子(福岡県史文化史料編担当)・山下博明(山之口町文化財専門委員)・和田修(早稲田大学演劇博物館助手)の五名が担当した。
 この調査は後に『山之口麓文弥節人形浄瑠璃調査報告書』として平成五年に刊行されており、その内容は概略以下の通りである。

 第一章 永井彰子「山之口麓の芸能環境」、第二章 内山美樹子「浄瑠璃史における文弥節」、第三章 時松孝文「文弥節の伝播」、山下博明「保存会の歩み」、第四章「現況」、和田修「概要」、和田修「文弥節の台本」、内山美樹子「文弥節の曲節」、時松孝文「人形と操法」、和田修「間の物」
 この報告書が刊行されて、平成七年十二月二十六日に国指定の重要無形民俗文化財「山之口の文弥人形」として指定された。

【北川上流域の農耕習俗】
 平成二年一月二十六日、「北川上流域の農耕習俗」は、国の「記録作成等の措置を講ずべき無形民俗文化財」として文化庁の選択指定を受けた。この報告書が、指定から六年たって、平成八年三月に刊行された。事業の推進については元文化庁主任文化財調査官天野武氏の指導のもと、他五名の執筆者が調査報告をまとめた。調査・執筆者は、北川町から小野忠幸・今井昭三郎・児玉剛誠、県から那賀教史・前田博仁があたった。

(三)宮崎県内の研究団体
 民俗研究において何よりも重要な研究は地元の人々による調査・研究である。最も生の第一次資料を収集可能であり、長期間時間をかけた民俗誌の作成なども可能である。日本民俗学を支えてきたのは地域の調査者による報告書に負う要素が多く、地域の研究から中央の研究に影響を与えることも少なくない。

【日向郷土会】
 『日向郷土志資料』については、柳田國男によって次のように紹介されている。
「オバケ研究の専門雑誌が、最近に盛岡からでようとしている。また宮崎県の『郷土志資料』には、あの地方の妖怪変化の目録が、先々月から連載せられている。ばけ物はもちろんいたって古い世相の一つではあるが、それを観ようとする態度だけがこの頃やっとのことで新しくなり始めたのである。」(『妖怪談義』)
さすがに早くから妖怪研究に着手した日野巌氏の主催する会だけあって、柳田國男の目にも止まったのであろう。日向郷土会の活動については、当時の会規約で当初より研究会としての機能を果たしていたことが伺える。

日向郷土会規
一、目 的 古国日向の自然と人文を各方面から探求し、広く材料を蒐集保存する。
一、仕 事 イ、郷土資料の蒐集と研究
      ロ、研究会、座談会等の開催
      ハ、各地採訪旅行
      ニ、県外研究者との連絡並に資料の交換
      ホ、雑誌「日向」郷土志資料の刊行
一、入会を希望する方は御申込みを願ひたし。雑誌購読者は会員と見倣す。
一、事務所 宮崎市神宮町二三、日野巌方

 こうした研究会の活動も個人中心で運営してきたこともあってか、昭和一四年九月、廃刊となる。最終巻には次のような言葉が挙げられている。
「日向郷土読本を以て、一先づ雑誌「日向」を廃刊したいと思ふ。明年は紀元二千六百年であり、諸事すべて一新の気運である。「日向」も昭和六年一月創刊以来、既に八年を経過した。その間、日向の文化に多少とも貢献し得たことを喜んでいるが、この頃は少しく疲れが見えた。この際潔く廃刊したいと思ふ。小倉文華堂主人が経済的にも精神的にも八年余の長い間「日向」を育んで下さったことを読者とともに感謝せねばならない。」

                     (第一八ー二〇合輯)
 この後、日向郷土会は『日向郷土読本 第一巻』(日野巌・日向郷土会編 一九三九)や『その日その日宮崎県』(日向郷土会編 日向郷土会出版部 文華堂出版部 一九七四 三)等の出版物を出している。

【『日向 郷土志資料』】
・創刊輯、昭和六年一月、美濃判謄写版刷、
 松本友記「高千穂夜神楽に就て」、田原重義「大蛇の話」、金丸豪・遠藤茂「日向の方言」、日野巌「木喰上人作牛王寶印」、日野巌「妻萬宮大般若経」、日野巌「鶉車」、「余録(種痘踊り、古書にあらはれし宮崎、爐の周囲の座席名、宮崎県郷土研究家名簿(一))」、(「創刊号」は第十輯(昭和八年二月)の付録として再録されている。)

・第二輯、昭和■年■月、美濃判謄写版刷、
 「宝暦十一年日向国那珂郡江田村明細帳(一)」、日野巌「景清考」、日野巌「日向妖怪種目」、金丸豪「鬼火焚き」、加藤富司雄「炭焼小五郎の歌」、加藤富司雄「祝ひの歌」、日野巌「ロといふ接尾語」、日野巌「石奈古について」、日野巌「ジョのつく方言」、金丸豪・遠藤茂「日向方言語彙(形容詞の部)」、(「第二輯」は昭和七年八月に再録されている)

・第三輯、昭和■年■月、美濃判謄写版刷、
 「宝暦十一年日向国那珂郡江田村明細帳(二)」、松本友記「江田の五穀成就踊」、桂又三郎「景清伝説」、加藤富司雄「稚児鞍ケ淵の傳説」、山之城民平「石なごの話」、湯浅啓温「石見のナンゴ」、能田太郎「方言雑考」、小川新一「方言俚謡評釋(一)」、日野巌「日向方言語原考(一)」、日野巌・遠藤茂「日向方言語彙(人倫)」、日野巌「霧島山の佛法僧」、「余録(文政十一年江田村取調帳、挨拶の言葉、子守歌、ジョのつく方言)」

・第四輯、昭和六年九月、菊判活版刷、
 小川新一「方言俚謡評釋(二)」、東條操「日向方言に関する私見二三」、中道等「奥州の盲人の話」、山之城民平「伊東満所の家系」、日野巌「日向社寺明細記(一)磐戸神社」、木本直「日向南瓜」、松本友記「日向初等教育史話」、河井田政吉「檍ケ原の祓除」、中山太郎「景清伝説を記載せる書目」、松本友記「刺なきイバラと片目の魚」、田原重義「廃れ行くか飫肥泰平踊」、日野巌・遠藤茂「日向方言語彙(人倫の部)」、能田太郎「蟲の名の太郎(追補)」、大槻憲二「方言に於ける敬称と蔑称」、日野巌「再びジョのつく方言に就いて」、日野巌「日向郷土誌文献目録(一)」、

・第五輯、昭和七年一月、菊判活版刷、
 〈歴史・地理〉山之城民平「飫肥に於ける吉利支丹紋章」、河井田政吉「延岡町の切支丹遺跡」、河井田政吉「白鳥官山に在りし巨木」、瀬之口傳九郎「文明六年三州豪族記」、山之城民平「飫肥藩社寺知行高」、樅井甫「旧佐土原藩の教育」、青葉涼二「日向文献目録(二)」、〈民俗・方言〉小川新一「方言俚謡評釋(三)」、鷲見桃逸「玩具のない国は民族が滅亡する」、日野巌「日向の民家間取(一)」、清水武彦「佐土原藩を中心にして行はれた宮参り」、松本友記「正月に訪れ来るもの」、青葉涼二「瓜生野村八幡踊りの歌」、松本友記「日向地名伝説(一)」、星野厳夫「日向地名伝説(二)」、日野巌・遠藤茂「日向方言語彙(天文の部)」、松本友記「鹿児島県垂水町の正月慣習」、〈生物・産業〉遠藤茂「日向の椎茸」他。

・第六輯、昭和七年六月、菊判活版刷、
 〈歴史・地理〉瀬之口傳九郎「椎葉山に関する近世の記録(其一)」、日高次吉「佐土原藩祖島津征久就当時に於ける城下侍の出所調査」、日高徳太郎「佐土原藩の教育」、草野實「考古漫録(一)」、三好利八「日向文学■印に就て」、青葉涼二「日向郷土文献目録(三)」〈民俗・方言〉小川新一「方言俚謡評釋(四)」、日野巌「日向女子名の統計的考察」、松本友記「佐土原の夏祭に於けるダンジリの社会学的考察」、四本正秋「的射について」、河田晴夫「日向北部に行はるる迷信」、松本友記「佐土原の民俗」、諸家「各地の年中行事(一)」、古村虎雄「伝説童話、神代の崎田」、日野巌・遠藤茂「日向語彙(風呂の部)」、

・第七輯、昭和七年十月、菊判活版刷、
〈民俗・方言〉永田吉太郎「童戯と訛音」、ケンベル「景清」、谷口龍太郎「日向方言雑記」、日野巌「日向女子名の統計的考察補遺」、諸家「日向の冠婚葬祭」、四本正秋「飫肥のヤゴロ様」、松本友記「河童の話」、日野巌「日向語彙(植物)」、青葉涼二「日向郷土文献目録(四)」、

・第八・九合輯、「霊峰霧島山」特集、昭和八年一月、

・第十輯、昭和八年三月、菊判活版刷、
瀬之口傳九郎「椎葉山に関する近世の記録(其二)」、青葉涼二「日向郷土文献目録(五)」、濱田隆一「民俗断篇」、遠山渫雄「延岡地方の方言」、四本正秋「飫肥田上八幡の秋季例祭の催し一つ」、桐山英則「児湯郡妻町の謎」、後藤弘「田の草取り歌」、後藤弘「門川村の民俗」、

・第十一・十二輯「日向の青島」特集、昭和八年四月、菊判活版刷、
 日野巌「青島素描」、長友千代太郎「青島神社」、中島悦次「阿遅麻佐能志麻考」、瀬之口傳九郎「日記紀行に見ゆる青島」、「海幸、山幸伝説」、日野巌「海幸、山幸伝説のわに」、樅井甫「青島島名雑考」他。

・第十三輯、昭和八年十月、菊判活版刷、
 青葉涼二「日向郷土文献目録(六)」、松本友記「知識伝承の一形式としての俚言」、上田強「日向に於ける民事慣例」、能田太郎「あま考」、日野巌・遠藤茂「日向語彙(動物の部)」、山之城民平「大平歌」、河田晴夫「盆踊音頭集(日向北部)」、

・第十四輯、昭和九年五月、菊判活版刷、
 松本友記「をこぎ小屋を覗き見るの記」、松本友記「鬼八伝説」、河田晴夫「盆踊音頭集(二)」、能田太郎「精霊と虫」、青葉涼二・遠藤茂「日向語彙(植物の部)」、

・第十五輯、昭和十年二月、菊判活版刷、
日高醇「佐土原地方の禊祓」、河田晴夫「盆踊音頭集(三)」、四本正秋「日向の蛍狩俚謡」、鬼塚厚「古月禅師作詠歌」、兒玉寿太郎「古語と方言」、兒玉寿太郎「都城方言考」、遠藤茂・伊地知重基「飫肥の方言(一)」他、

・第十六・十七合輯「佐土原・妻・西都原」特集、昭和十三年四月、菊判活版刷、
青葉涼二「一ツ瀬清流の南岸に佇みて」、樅井甫「広瀬より佐土原・都於郡・妻へ」、日高篤重「日向吾平山陵」、三好利八「佐土原の伝説地」、鬼塚厚「安政年間に於ける妙心寺派佐土原寺院」、日高醇「佐土原地方の禊祓」、松本友記「佐土原夏祭に於けるダンジリの社会学的考察」、松本友記「佐土原の民俗」、青葉涼二「佐土原の郷土玩具」、三好利八「佐土原の刀匠」、三好利八「佐土原の方言」、「都於郡の習俗」、「都於郡の俚謡」、「都於郡の伝説」、黒木正美「妻史」、兒玉陵峯「妻の神代伝説地」、日高次吉「妻町在長徳寺に絡まる挿話」、青葉涼二「木食上人の作った牛王寶印」、青葉涼二「妻萬大明神施入の大般若経」、「妻・上穂北の年中行事」、「妻の俚謡・民謡」、「妻地方の俗信」、「妻地方の方言」他、

・第十八・二十合輯「日向郷土読本」、昭和十四年九月、菊判活版刷、

【日野巌氏の経歴】(一八九八~一九八五)
 日野巌は、一八九八年山口県生まれ、東京大学農学部卒業後、大正十五年に宮崎高等農林学校教授となる。宮崎県の自然や民俗に注目し、日向郷土会を主宰、雑誌『日向(郷土志資料)』を刊行する。昭和十五年には県立上代日向研究所の民俗部主査となる。昭和十七年に陸軍司政官として南方に転出し、その後、山口大学教授・宇部短期大学教授を歴任し、昭和六十年に逝去された。
 著書としては次のようなものがある。
『動物妖怪譚』日野巌 養賢堂 一九二六(復刻 有明書房 一九七九)
『日向方言論考』日野巌 上代日向研究所 一九四二(研究資料第一)
『植物怪異伝説新考』日野巌 有明書房 一九七八
『植物歳時記』日野巌 法政大学出版局 一九七八
「日向地方妖怪種目」『民族二ー三』昭和二年三月
「宮崎県宮崎市付近(俗信)」『民族二ー六』昭和二年九月
「日向南部の河童」『民族三ー3ー5』昭和三年七月

【日向史学会】日向史学会は、日高重孝を会長に、昭和二十七年八月に発足された会である。日高は、創刊号の「発刊の辞」で「吾が日向は、文献資料には乏しいが、伝承と遺跡とは、実に豊富な国である。例えば前者では肇国以来の神話伝説の類、後者では先史時代から、原史時代に亘り、特に国内各所に累々たる三千の古墳群と夥しい出土品がある。」と、宮崎という土地が歴史学よりも考古学や民俗学が主体ですすめるべきであることを述べている。

 「日向史学会要項」には、「今回児湯郡妻町に本部を有する日向文化同好会を中心に延岡市の尚風会、日向古蹟同好会を初め県下の同学の士を以て日向史学会を組織し、日向史の科学的研究に歩調を揃えて新発足することとなりました。本会の目的とする所は県下同学の士の力を併せて日向史の科学的究明に乗り出すことにあります。従って狭義の史学に限らず考古学、地質学、地理学、民俗学、言語学、美術史、工芸史等あらゆる分野に亘ることといたします。」とその目的が記されている。役員は、会長が日高重孝、副会長に石川恒太郎と鬼塚正二、幹事に日高次吉・吉野忠行・日高正晴・前田厚・小手川善次郎・野田敏夫があたった。

【『日向史学』】
・創刊号、昭和二十七年十月、石川恒太郎「県の研究」、日高次吉「封建制日向の諸問題」、前田厚「地名考」、石川恒太郎「延岡陶窯史考」
・第一巻第二号、昭和二十八年四月、日高次吉「封建制日向の諸問題ノ二」、日高正晴「日向古代の再検討(上)」、石川恒太郎「西南戦争に於ける薩軍の大払制度に就て」、日高徳太郎「記憶に残れる明治中期思想の片影」
・第一巻第六号、石川恒太郎「日向に於ける横穴古墳及地下式古墳とその分布に就て」、日高次吉「或る家の歴史(一)」、鬼塚正二外「県立博物館設置運動誌」、日高次吉「荘園制日向の諸問題(三)」
・第一巻第四号(東米良特輯号)、昭和二十九年一月、日高重孝「銀鏡史跡調査紀行」、石川恒太郎「東米良村銀鏡調査報告」、日高正晴「銀鏡遺蹟調査の概報」、日野巌「県立博物館設置運動前史」、日高次吉「或る家の歴史(二)」、竹下雄一郎「佐土原藩職制遺考」
 ※昭和二十五年六月七日から十一日まで、日向文化同好会(日向史学会の前身)の日高重孝・石川恒太郎・鬼塚正二・吉野忠行と県から寺原主事、そして報道として日向日日新聞妻支局長小畑正男による、銀鏡史蹟調査団の一行七名が訪れた。

 『日向史学』は、この号(第一巻第四号)を以て休刊するが、昭和三十四年五月に復刊する。復刊に際して記された「復刊のことば」には、次のようにある。
「”日向史学”はさきに日向史学会によって去る昭和二十七年に創刊されてより第四号まで刊行したが、昭和二十九年に会の幹部を挙げて県の経済史編さんに動員されたため、その後休刊の状態となった。」とあり、「当時は終戦後のインフレが未だ充分おさまらない時代で、社会も人心もまだ不安定な状態であったのと、”日向史学”を純粋な学術的雑誌にしようという会員の希望もあったので、雑誌そのものにも大衆性を欠いだきらいがあった。ところが、最近においては社会情勢が相当に落ちつき、学校教育の上からも社会科として、また新しい歴史としてわれわれの生活のよって立つ郷土の歴史は当然とり上げねばならないこととなった。それらの状況から、再び日向における地方史家をはじめ、幅広い同好の士をもって日向史学研究会を組織しようという動きが二、三年来続けられたが、これが結実して旧蝋宮崎市の社会教育会館で創立総会が開かれ、機関誌としては従来中央の学会にも名の通っている”日向史学”を復刊することとなった次第である。」

 復刊後の『日向史学』は、橘百貨店や日向日日新聞社の後援のもと、復刊第二号(昭和三十五年二月)まで続く。橘百貨店は日高重孝著『日向今昔物語(改題)』を発行することとなる。

【『日向民俗』の足跡】
宮崎県で唯一の民俗専門の研究会として、昭和二十九年に発足した「日向民俗学会」は四〇年以上の歴史を持ち、後の宮崎県民俗学会へと引き継がれている。
日向民俗学会の活動の足跡をたどるに当たって、現在のところ、会誌の編集方針によって大きく五期に区分することができる。

第一期(創刊号~三〇号まで)
 日向民俗学会の初代会長は田中熊雄であった。田中は宮崎大学教授(後名誉教授)であり、学会の事務局は日本史研究室に置かれていた。大学生を中心にした調査報告書が主体の内容である。
 日向民俗学会は、昭和二十九年三月五日に発足している。発足当時の活動状況は学会規約から伺うことができる。

 日向民俗学会規約
    一、総 則
(一)、本会は日向民俗学会と称する。
(二)、本会は民俗学の研究と資料採集調査及び会員相互の連絡を計ることを目的とする。
(三)、本会は、(二)の目的を達成するために左の事項を行う。
 1、日向の民俗についての研究調査。
 2、日向民俗学会並に各種民俗学会研究団体との連絡提携。
 3、本科の機関誌としての「日向民俗」の発行。
 4、研究図書の購入。
 5、社会科学習の資料提供。
   二、会 員
(四)、本会の趣旨に賛同する同好者を以って組織する。
   三、役 員
(五)、本会は次の如く会員の中から役員を選出して会の運営を円滑ならしめる。
   (会長一名、副会長一名、会計一名)
(六)、役員の任期は一ヶ年とする。
   四、運 営
(七)、本会は例会として毎月開く。但し学内では、毎週開くこととする。
(八)、総会は年一回(日時は役員会にて定める)宮崎大学学芸学部で開く。
(九)、総会においては各自の意見発表、意見交換、会務報告その他重要事項の決議をなす。
(十)、総会の決議は出席者の過半数の賛成を必要とする。
(十一)、会員相互の連絡の為、本部を宮崎大学学芸学部日本史研究室に置く。
(十二)、希望及び提案に際しては詳細に連絡し、会の向上発展に協力する。
(十三)、講師の招待は役員会によって決定する。
   五、会 計
(十四)、会員は会費として二十円也を毎月会計に納入すること。
                 (昭和二十九年三月五日)
当初、宮崎市街地の船塚町にあった宮崎大学学芸学部(後の教育学部)の田中熊雄教授のいる日本史研究室を事務局としており、学生を中心とした毎週の例会や会員まで広げた毎月の例会も可能となったのであろう。

第二期(三一号~四一号)
 事務局を田中熊雄会長宅に移し、編集委員会も主幹田中熊雄をはじめ、編集委員に吉野忠行・長津繁文・甲斐畩常・長谷川孝美・黒木倉吉・瀬戸山計佐儀・青山幹雄・屋敷繁・西川功(三九号~)らが当たった。雑誌の内容に関しては、それまでの質問形式の調査報告ののみではなく、第三二号から調査研究や論考も掲載するようになった。
 三一号の編集後記には次のように記されている。
「日向民俗学会事務局は創設当初から宮崎大学日本史研究室におかれていたのが、この四月から会長宅におくことに変更した。この三十一号は新事務局での編集発行ということになった。」

第三期(四二号~四七号)
 この期より編集員に多少変更があった。編集委員は、田中熊雄・長津繁文・長谷川孝美・瀬戸山計佐儀・青山幹雄・屋敷繁・西川功・原田知学・泉房子・山口保明・石田陽・井上重光らが当たった。

第四期(四八号~四九号)
 平成五年、これまで続いてきた日向民俗学会を発展的解消をして、新たに宮崎県民俗学会(会長瀬戸山計佐儀)として発足した。四八号の巻頭に野口逸三郎が「発刊に寄せて」として、「昭和二十九年日向民俗学会の発会以来引続いてその会長を勤め、宮崎の民俗学の草分けを以て自認して来た田中熊雄さんが、この三月、よんどころない家庭事情のため、五十有余年間住みなれた宮崎をはなれて千葉県に移られた。最後まで宮崎をはなれたくなかったのをご承知の関係者の皆さん方だっただけに、この跡民俗学会をどうするかについては、慎重な論議が交わされたことと存じます。結果的には、会の名前を宮崎県民俗学会と改め、新しく会長に瀬戸山計佐儀、副会長に原田知学、同山口保明、名誉会長田中熊雄、幹事十九名の顔ぶれを以て再出発、まことにおめでとうございます。もともと宮崎という風土は民間の文化団体の育ちにくい所柄で、手を貸すよりも足を引っぱろうとする傾向が強いといわれますが、それが民俗学にも関係したのか、研究活動は活発とは云えず、学問としての体系化も後れていると云われて来ました。」と、研究状況について言及している。

第五期(五〇号~)
 その後、会長は山口保明へと代わり、民俗学の学会として再編を計ることとなった。事務局を定め、会計・監査や編集委員会を明確化した。会誌も『みやざき民俗』と改称し、通巻五〇号記念として「宮崎と民俗学」と題した特集には千葉徳爾・荒木博之・小島美子・野本寛一ら多くの研究者から今後の宮崎県における民俗研究に対する提言が為されている。

【『日向民俗』目録】※詳細な質問項目は、『宮崎の戦後出版目録』(昭和六〇年)に掲載されている。
〈第一期〉号数、刊行年月、特集、版、総頁数、質問項目数(内容)、調査地数、備考
1、昭三〇年一月、「狩猟資料」、謄写版、三一頁、質問六項目(山の神、呪力、忌言葉、狩猟方法、猟場組織、捕獲物)、調査地五
2、昭三一年一月、「田植資料」、謄写版、三二頁、質問九項目(苗代、田打、灌漑、田植、田の神、稲祈祷、田下駄、一宮神社作祭り)、調査地五、この他「霧島山麓狩猟聞書」あり。
3、昭三二年一月、「正月行事」、謄写版、四三頁、質問項目(一~五三)、調査地二四、
4、昭三二年一二月、「年中行事」、謄写版、四四頁、質問項目(五四~一一一)、調査地二四(同前)
5、昭三三年六月、「葬制資料(一)」、謄写版、三六頁、質問項目(一~三六)、調査地五〇
6、昭三三年一二月、「葬制資料(二)」、謄写版、三六頁、質問項目(三七~七二)、調査地五〇(同前)
7、昭三四年一月、「葬制資料(三)」、謄写版、四六頁、質問項目(七三~一二五)、調査地五〇(同前)
8、昭三四年一二月、「葬制資料(四)」、謄写版、二二頁、質問項目(一二六~一四〇)、調査地五〇(同前)
9、昭三五年六月、「誕生資料■(一)」、謄写版、三二頁、質問項目(一~四三)、調査地三六()
10、昭三五年一二月、「誕生習俗(二)」、謄写版、三七頁、質問項目(四四~九九)、調査地三六(同前)
11、昭三六年六月、「誕生習俗(三)」、謄写版、二九頁、質問項目(一〇〇~一三五)、調査地三六(同前)
12、昭三六年一二月、「婚姻資料(一)」、謄写版、二七頁、質問項目(一~二〇)、調査地三〇()
13、昭三七年六月、「婚姻資料(二)」、謄写版、三〇頁、質問項目(二一~四〇)、調査地三〇(同前)
14、昭三七年一二月、「婚姻資料(三)」、謄写版、三二頁、質問項目(四一~六七)、調査地三〇(同前)
15、昭三八年六月、「婚姻資料(四)」、謄写版、四六頁、質問項目(六八■~一二〇)、調査地三〇(同前)
16、昭三八年一二月、「食物習俗(一)」、謄写版、三二頁、質問項目(一~一三)、調査地三九()
17、昭三九年六月、「食物習俗(二)」、謄写版、三一頁、質問項目(一四~三〇)、調査地三九(同前)
18、昭三九年一二月、「食物習俗(三)」、謄写版、三二頁、質問項目(三一~四九)、調査地三九(同前)
19、昭四〇年六月、「食物習俗(四)」、謄写版、三〇頁、質問項目(四九■~七〇)、調査地三九(同前)
20、昭四一年一月、「食物習俗(五)」、謄写版、三〇頁、質問項目(七〇■~八七)、調査地三九(同前)
21、昭四一年六月、「食物習俗(六)」、謄写版、二一頁、質問項目(八七~一〇〇)、調査地三九(同前)
22、昭四二年六月、「昔ばなし(一)」、謄写版、四四頁、質問項目(R・J・アダムス氏聞書)、調査地四(高千穂町・木城町・宮崎市・綾町)
23、昭四三年六月、「昔ばなし(二)」、謄写版、三七頁、質問項目(同前)、調査地六(日之影町・高千穂町・綾町・北郷町他)
24、昭四四年一二月、「衣服習俗(一)」、謄写版、三一頁、質問項目(一~一〇)、調査地三九()
25、昭四五年一一月、「衣服習俗(二)」、謄写版、三〇頁、質問項目(一一~二九)、調査地三九(同前)
26、昭四六年一一月、「衣服習俗(三)」、謄写版、三一頁、質問項目(三〇~四五)、調査地三九(同前)
27、昭四七年一一月、「衣服習俗(四)」、謄写版、三二頁、質問項目(四六~六三)、調査地三九(同前)
28、昭四八年一一月、「衣服習俗(五)」、活版、三一頁、質問項目(六四~八七)、調査地三九(同前)
29、昭四九年一一月、「衣服習俗(六)」、活版、三一頁、質問項目(八七~一一一)、調査地三九(同前)
30、昭五〇年四月、「衣服習俗(七)」、活版、一五頁、質問項目(一一一~一二〇)、調査地三九(同前)

〈第二期〉
31、昭五一年八月、「民間医療」、活版、三三頁、質問項目(八五)、調査地五(延岡市・西郷村・綾町・三股町・都城市)
32、昭五二年一一月、「出産習俗」、活版、三〇頁、質問項目(一八/一三)、調査地六(都城市・日向市・高岡町・小林市・綾町、沖縄県)
 吉野忠行「山伏家の顛末」、吉川親雄「麻糸作りの習俗」、瀬戸山計佐儀「山茶花の民俗」
33、昭五三年一二月、「お盆行事」、活版、三一頁、
「神道関係盆行事」質問項目二二、調査地三(西都市・宮崎市・都城市)
「仏教関係盆行事」質問項目二二、調査値四(西郷村・日向市・西都市・宮崎市)
 瀬戸山計佐儀「高木の神道寺元」、田中熊雄「銀鏡神社大祭奉納神楽調査報告(一)」
34、昭五四年一〇月、「屋敷神・屋内神」、活版、三〇頁、質問項目八、調査地三四()
 瀬戸山計佐儀「三股の最勝講と女人の不浄性」、田中熊雄「銀鏡神社(二)」「地つき歌」、吉野忠行「民間信仰とは何か討議概要」、「焼っ米について」「醤油味噌と味噌団子について」
35、昭五五年一一月、「まつり」、活版、三六頁、
 都城南方神社、稲荷神社、旭丘神社、宮崎白山大権現、倉岡神社、八幡神社、細島港、 田代神社、都万神社、
 吉野忠行「日向の冷や汁について」、田中亀男「庄内大斎考」、井上重光「朝倉寺白山様祭」、瀬戸山計佐儀「子供の遊び」、田中熊雄「水清谷の炭山師」、中原長作「細江百万べん」他
36、昭五六年一一月、「婚姻習俗」、活版、三〇頁、質問項目一五、調査地五(日向市・高岡町・えびの市・都城市・西都市)
 井上重光「日向国に祭祀された神々」、田ノ上哲他「宮崎の庚申塔」、田中熊雄「釣竿師」、吉野忠行「研究討議・婚姻習俗について」、瀬戸山計佐儀「高木の諸講」、黒木正人「牛越祭」他
37、昭五八年三月、「山の神特輯」、活版、四四頁、
 大迫行義・大山鉄也「山の神の祭祀形態(宮崎県中南部及び熊本県球磨郡)」
38、昭五九年三月、「誕生習俗」、活版、二三頁、質問項目二〇、調査地不明
39、昭六〇年三月、「産育習俗」、活版、二七頁、質問項目二四、調査地不明
40・41、昭六二年三月、「行事の研究」、活版、四三頁、
 「昭和六〇年度に行った正月行事調査報告」質問項目一六、調査地三(西都市・宮崎市・都城市)
 「呪術」質問項目五六、調査地一二(高崎町・高鍋町・宮崎市・西都市・三股町・都城市・高岡町・高千穂町・延岡市・串間市)

〈第三期〉
42、昭六三年三月、「盲僧の研究」、活版、二四頁、
 瀬戸山計佐儀「諸県の盲僧寺」、田中熊雄「景清関係記録」「御祈祷盲僧関係資料」、「民間芸能観覧記」、井上重光「漁撈習俗ゴロリ捕り」
43、平元年三月、「葬儀の研究」、活版、三〇頁、質問項目一八、調査地六(都城市・高岡町・清武町・宮崎市・佐土原町・西米良村)
 田中熊雄「葬儀と太刀」、首藤光幸「馬子祝い」、瀬戸山計佐儀「盲僧寺の調査報告」
44、平二年九月、「熊野江年中行事」、活版、二七頁、
 瀬戸山計佐儀「死とお盆行事調査報告」「日向国の盲僧寺」、福元治夫「髪長媛考」、前田聰「盲僧寺址をたずねて」、中川千雪「熊野江の昔の年中行事」、迫田秀俊「三徳院の祭り」他
45、平三年六月、「通信習俗」、活版、二三頁、質問項目二〇、調査地五(綾町・国富町・高岡町・宮崎市・高崎町)
 井上重光「宮崎周辺の草相撲」他
46・47、平四年九月、「烏八臼特集」、活版、三三頁、
 「通信習俗調査報告(続)」、藤田忠司「宮崎県の烏八臼」、瀬戸山計佐儀「北諸県の建築習俗」

〈第四期〉
48、平五年一一月、「子供の遊び特集」、活版、二二〇頁、
 特集「子供の遊び」のほか、小野重朗「八朔と七夕・その性格」、下野敏見「城攻め踊りの源流」、山口保明「宮崎県の民俗逍遙」、江夏順吉「民俗文化「南九州の焼酎」」、大迫行義・大山鉄也「山神・シバ神・カクラ等を訪ねて」、若山浩章「近世期庶民の衣服にかかわる覚書」、那賀教史「川べりの民俗」、瀬戸山計佐儀「北諸県の「献上馬」」、倉元作次「北郷町の「カネオリ」について」、村上恩「「狭野奴おどり」の由来」、大村和子「安久木剣踊り」、瀬戸山計佐儀「諸県の郷土料理ー小突き豆腐ー」

49、平六年十二月、「子供の遊び特集」、活版、一五一頁
特集「子供の遊び」のほか、小野重朗「大黒から田の神へ」、山口保明「宮崎県の民俗芸能(一)ー神楽を視座にー」、那賀教史「米良の狩人ー西米良村小川地区を中心としてー」、中武雅周「西米良の労働唄」、渡辺一弘「宮崎県の屋敷神(一)」、前田博仁「宮崎県の年中行事(一)」、深江洋一「串間地方の俚謡」、中武弘「明治期に於ける盆行事と子どもたち」、黒木正隆「日南市の東弁分のデコクサマ」、海老原格士「宮崎市に多い日高姓について」、瀬戸山計佐儀「県内各地の労働唄」、田中繁隆「中郷地方の地鎮唄」、土持孝雄「神楽せり歌と神楽囃子」、清水聡「海を渡った日之影の竹細工」。

50、平八年六月、「宮崎と民俗学」「小野重朗先生追悼」特集、活版、一七六頁
 「特集 宮崎と民俗学」には、千葉徳爾「宮崎と私」、荒木博之「宮崎と私」、小島美子「民俗学の新しい課題」、野本寛一「日向への旅」、古橋信孝「民俗学の故郷宮崎への期待」、小島瓔禮■「かりこぼうの道」、根井浄「「半ぴ」話の発掘のころ」、和田修「宮崎の近世舞台芸能」が投稿しており、「特集 小野重朗先生追悼」には、山口保明・原田解・井上重光・大浦フサ子・黒木昭三・江口司・前田博仁・那賀教史・若山浩章・渡辺一弘・中武雅周が寄稿している。このほか、下野敏見「田代のオンダ祭に思う」、天野武「西米良における野兎の民俗ー上米良槙之口の場合を中心にー」、渡辺伸夫「「すがもり」ノート」、山口保明「宮崎県の民俗芸能(二)ー神楽を視座にー」、原田解「宮崎の新民謡」、瀬戸山計佐儀「一門講」、渡辺一弘「宮崎県の屋敷神(二)」、若山浩章「幕末期庄屋家の葬儀・婚礼・節句の一事例」、前田博仁「宮崎県の年中行事(二)」、江口司「昨祝いと鳥追い」、前田博仁「都農町の猪垣」、関山秀信「鬼の頭トンネルの由来(上御用水路)」、中武雅周「子供の季節」、那賀教史「よる・あむ・つくるー樹皮の繊維利用の事例からー」、山口保明「ふるさとのこころー地名を考えるー」他。

51、平九年八月、「神楽」特集、活版、一三七頁
 「特集 神楽」には、山口保明「宮崎県の民俗芸能(三)ー神楽を視座にー」、井上重光「金崎神社の由来と神楽歌」、橋本進「笹振り神楽の裏面」、中武雅周「村所神楽の神屋」、高橋政秋「夜神楽随想ー「夜神楽小唄」の歌づくりー」、前田博仁「三川内神楽」、本山隆義「郷原神社の神楽について」、「神楽資料紹介ー生目神楽・島戸神楽・高鍋神楽ー」、渡辺一弘「宮崎県関連神楽文献目録」が掲載されている。このほか、永松敦「椎葉民俗芸能博物館の開館に際して」、前田聰「小川民俗資料館創設の経緯」、首藤光幸「高岡の石碑について」、土持孝雄「宮崎を愛した文人たち」、黒木安弘「庶民信仰」、江口司「おんなめかずら」、那賀教史「よる・あむ・つくる(二)ー吊りと枠のあテゴ作り伝承からー」、前田博仁「宮崎県の年中行事(三)」

(三)公共機関の出版物
【宮崎県総合博物館研究紀要】
・昭和四七年度
 「三川内の調査について」、沢武人「三川内の農耕儀礼」、泉房子「産育儀礼にみる忌みの習俗」他、
・昭和四八年度
 沢武人「春耕・秋収ー古代の紀年法についての提案ー」、
・昭和四九年度
 沢武人「春耕・秋収ー古代の紀年法についての提案ー」、泉房子「宮崎のテゴ」、
・昭和五三年度
 泉房子「焼き畑地帯の食生活ー西米良の民俗調査からー」、宮脇繁他「博物館における教育普及活動を考えるー森の教室を中心としてー」
・昭和五四年度
 泉房子「日向の山村生産用具(その一)ー重要有形民俗文化財指定を指向してー」

【宮崎県地方史研究会】
 現在継続されている宮崎県立図書館による『宮崎県地方史研究紀要』はこの研究会が母胎となっていることから、宮崎県の歴史研究に与えた影響は大きい。この研究会の発足について野口逸三郎は次のように述べている。
「いま宮崎県地方史研究会の名を称している私どもの研究グループは、もともと自然発生的な同好者の集まりであった。妻高校を退かれた日高次吉氏が県立図書館でひとりコツコツと佐土原島津文書の筆写の仕事を続けて居られるところに、昭和四十四年四月から筆者も同じ図書館の一室で総合博物館建設の手伝いをすることになり、そこに浜田宣弘、富永嘉久、沢武人、大野岩男、河野聚、杉田秀清などの諸氏がしばしば顔を見せて、宮崎県の地方史研究の現状や、県内に残っている史料が年々消滅の危険にさらされていることなどが話題になった。(中略)たまたま昭和四十六年の秋頃だったと思う、久しく所在が分からず幻の書になりかけていた「高岡名勝志」が偶然の機会から見付かったのでこれを研究資料として同好者の間に頒布することになった。その校訂編輯の責任を明らかにする必要上研究グループの名称を具体化することになって誰云うとなしに「宮崎県地方史研究会」に決まった。昭和四十七年三月のことである。」

・『宮崎県地方史研究会会報 創刊号』(昭和五十年)
 日高次吉「御木曳」、末長和孝「近世初期における飫肥藩の「門」についての一考察」、沢武人「夢を追うー古事記と魏志倭人伝とー」、永峯弘道「大光寺文書「雲水記」について」、富永嘉久「三位入道伊東義祐の人間像 試論」、中原正久「幕末における諸県郡寺院調査 その一」、永井哲雄「「日向国図田帳」の一、二の点について」他、

・『宮崎県地方史研究会会報 二号』(昭和五十一年)
 大野岩男「「日向記」の成立に関する考察」、泉房子「民具の調査」、沢武人「民具調査の背後にあるもの」、永井哲雄「棟札について」、富永嘉久「八幡宇佐宮宮崎荘の周辺」

【宮崎県地方史研究紀要】
 『宮崎県地方史研究紀要』は、昭和四九年度(昭和五〇年三月)より刊行されている。年度を通して催される地方史講座の発表を紀要に原稿化したもので、当初はあるテーマを以て企画されていた。そのそのタイトルのうち民俗に直接関係する項目のみをここでは取り上げる。

・昭和四九年度
 比江島重孝「日向の民話」、青山幹雄「日向の田の神像」、黒木正雄「日向の馬」、泉房子「日向の民具」、土持穆芳「日向の社寺」、
・昭和五三年度
 澤武人「庶民の生活」、野口逸三郎「時代に生きた人々」、
・昭和五五年度
石川恒太郎「藤江監物」、青山幹雄「日講上人と古月禅師」、
・昭和五九年度
 泉房子「漁村の生活誌」、矢口裕康「生活と民間説話」、吉野忠行「日向修験の一端」、屋敷繁「氏神信仰に関する一考察」、山口保明「宮崎県郷土資料利用の手引」、
・昭和六〇年度
 寺原俊文「文化財保護制度の推移について」、原田解「日向民謡の歩み」、山口保明「宮崎の神楽の継承について」、中島寅雄「椎葉村研究について」、
・昭和六一年度
 泉房子「椎葉・西米良の焼畑農耕」、青山幹雄「佐土原の伝統芸能」、中島寅雄「塩の需給と生活慣行」、徳永孝一「宮崎県の養蚕と製糸について」、瀬戸山計佐儀「廃仏毀釈と一向宗弾圧」
・昭和六二年度
 青山幹雄「まぼろしの佐土原人形」、富永嘉久「上井覚兼日記にみる戦国武将の文化生活について」、矢口裕康「宮崎のわらべ唄とその伝承」、山口保明「日向の狩猟とその伝承」、前田博仁「照葉樹林文化と宮崎」
・昭和六三年度
 前田博仁「修験大円と庶民信仰」、池田純義「性空上人と霧島文化」、
・平成元年度
 青山幹雄「日記にみる日向路」、前田博仁「近世日向の仏師」、迫田秀俊「えびの地域の仏教文化(資料)」、池田純義「県下の大将軍信仰」、
・平成二年度
 瀬戸山計佐儀「都城方言の特徴」、
・平成三年度
 吉野忠行「日羅について」、井上重光「木花相撲踊りと宮崎周辺の草相撲」、池田純義「日南地方の神楽」、滝一郎「高千穂採薬記の植物民俗」、
・平成四年度
 矢野一弥「日向における廃仏毀釈の諸相」、南谷忠志「宮崎の植物民俗覚書」、
・平成五年度
 尾形森衛「日向の民謡」、中武雅周「米良地方の神楽」、黒木亜美子「宮崎の神楽」、ロバート・アダムス「日向の神話」、

【宮崎県教育委員会】
 『宮崎県文化財調査報告書』は、第一輯が昭和三十一年三月に刊行されている。〈民俗資料〉に関しては、田中熊雄「椎葉山村の民俗資料」がある。田中熊雄の椎葉村調査は、昭和二十九年に尾向・十根川・不土野・松尾で行われた調査報告である。生産・狩猟・運搬・信仰関係の民具中心の調査であった。また、日高正晴「東米良の民俗資料(狩猟用具)」は、昭和二十九年十一月十一日から十五日まで、そして十二月十八日、昭和三十年九、十月の三日間、昭和三十一年三月二日より三日間に行われた調査をまとめたものである。このほか、〈郷土芸能〉に関しては、「柚木野人形(上野村)」「俵踊(本庄町)」「バラ太鼓踊(八代村)」「神事(高原町)」「神楽(東米良村)」の報告がある。第一輯の内容は、民俗資料・郷土芸能・植物の項目であるが、今後の調査報告書は埋蔵文化財関連中心になっていく。

 『日向の民俗芸能』は、昭和三三年度から昭和三十五年度にわたって宮崎県教育委員会が行った初めての民俗調査をまとめた初めての刊行物である。当初より「今日の変転複雑な生活の中において、価値高い祖先からの文化遺産に接する機会を持つとともに、資料的には日本芸能史研究の一助とするため、本年度より三ヶ年計画で県内民俗芸能の詳細な記録に着手したものである。」と調査研究の重要性に理解を示している。全三輯の目次は次のようである。

 『日向の民俗芸能 第一輯』
  一、黒口部落の伝承ー棒術と臼太鼓ー(県文化財専門委員 柳宏吉)
  二、高千穂町三田井における伝承の一例ー棒術を中心としてー(同右)
  三、鴫野の棒踊(県文化財専門委員 安田尚義)
  四、俵踊(県立大淀高校教諭 吉野忠行)
  五、西都地方の臼太鼓踊(県文化財専門委員 日高正晴)
 六、カネオドリ(鉦踊)(県文化財専門委員 前田厚)
 『日向の民俗芸能 第二輯』
  一、高千穂の夜神楽(県文化財専門委員 柳宏吉)
  二、熊襲踊(県文化財専門委員 前田厚)
  三、バラ太鼓踊(県文化財専門委員 石川恒太郎)
  四、神楽(県文化財専門委員 安田尚義)
  五、東米良の夜神楽(県文化財専門委員 日高正晴)
 『日向の民俗芸能 第三輯』
  五カ瀬の源流をたずねてー五カ瀬町の太鼓踊り・棒術・神楽・荒踊りー(柳宏吉)
  泰平踊(石川恒太郎)

 『民俗資料緊急調査報告書ー高千穂地方の民俗ー』(昭和四六年)は、国鉄高千穂線開通に伴い、高千穂地方の習俗、民間伝承、山村生活用具などの散逸・消滅が予想されたことから、国庫補助事業により、宮崎県教育委員会が昭和四十五年七月に行った調査報告書である。調査員には、祝宮静(名城大学教授)、田中熊雄(宮崎大学)、日高正晴(県文化財専門員)、沢武人(県総合文化施設準備事務局主任)、田中茂(県立博物館主事)に加え、県社会教育課職員、宮崎大学学生らが参加した。地元調査員としては、甲斐徳次郎・甲斐畩常・興梠弥寿彦・原慶二・西川功があたった。

 内容は、「第一編 総論」には、総観、衣・食・住、生産・生業、交通・運輸・通信、交易、社会生活、信仰、民俗知識、民俗芸能、人の一生、年中行事の項目があり、「第二編 各論」には、麻の生産習俗、麻の生産用具、田植に関する習俗、狩猟習俗、庚申信仰、神祭に関する習俗、誕生習俗、婚姻習俗、葬式習俗の項目があげられている。

 『宮崎県民俗地図(宮崎県文化財調査報告書)』(昭和五三年)は、昭和五一年度(一〇〇か所)から五二年度(五〇か所)にかけて行われた聞き取り調査(国庫補助による「宮崎県緊急民俗文化財分布調査」)を元に作成された民俗地図である。この原資料は刊行されてはいないが、詳細な調査であるため、『宮崎県史 資料編 民俗1・2』では「民俗事象調査」として利用されている。原資料は現在宮崎県総合博物館は所蔵している。この調査は県下の民俗研究者・市町村文化財調査委員・小中学校教諭が当たり、話者には七〇歳以上の老人を二名以上選んで行われた。地図は沢武人(宮崎県総合博物館学芸課長)・泉房子(同学芸員)・立元久夫(文化課主事)が作成した。地図の内容は信仰・衣食住・農業・運搬・市・若者組・講・人生儀礼・年中行事など六一項目が取り上げられている。

 『宮崎県の民謡』(昭和五六年)は、昭和五十四・五十五年度にかけて行われた民謡調査の報告書である。調査委員には、石川恒太郎(県文化財保護審議会委員)・片山謙二(都城泉ヶ丘高等学校教諭)・高橋政秋(北郷小学校教諭)・鳥集忠男(都城市文化財調査委員)・原田解(日向民謡保存会顧問)・有川綱彦(教育研修センター研修主事)・正入木久男(県教育庁指導主事)・奈須稔(宮崎県民謡会会長)・松永建(宮崎大学教育学部助教授)・柳田昭(大宮小学校教諭)・垣内幸夫(宮崎大学教育学部講師)・川添益男(県教育庁指導主事)があたり、現地調査員としてのべ六三名が参加している。

 内容は、Ⅰ「民謡調査の概要」、Ⅱ石川恒太郎「民謡の背景」、Ⅲ片山謙二・原田解「宮崎県民謡の概観」、Ⅳ「本県の民謡」、Ⅴ「民謡に関する文献」である。
 また、この報告書には『宮崎県の民謡(文献集)』も同時刊行されている。その内容は、片山謙二「諸塚の民謡」、鳥集忠男「南九州の歌謡」、鳥集忠男「ふるさとの歌」、原田解「五つの川の唄」である。

 『宮崎県の諸職』(昭和六三年)は、昭和六十一・六十二年度に文化庁の指導と補助金を元に作成された報告書である。「宮崎県内各地に伝承されてきた様々な生活用具やその他の用具・用品等を製作・加工する伝統的技術は、地域に根ざした無形の民俗文化財としてまた、優れた工芸技術の基盤として価値の高いものであり、それに使用されてきた用具類には注目すべきものが少なくない。ところが、これらの用具類も、近時の新しい素材や技術の実態及び変遷について調査・記録し、関係資料の収集・保存・活用あるいは伝統的工芸技術の保存に資することを目的とする。」とある。調査件数は、昭和六十一年度が一二〇件、六十二年度が六〇件の合計一八〇件の内、一六五件を収録した。さらにその中から一〇人の諸職について細かく記載されている。その項目は、かるいづくり(飯干五男・日之影町)、木地師(小椋幸四郎・五ヶ瀬町)、碁石づくり(黒木芳文・日向市)、和紙づくり(山崎弘・西都市)、薬づくり(深田一子・川南町)、手揉茶づくり(大石久次・都城市)、弓づくり(坂元秀明・都城市)、石工(久島修・日南市)、はつり師(福山栄・日南市)、船大工(中村正二・串間市)である。

 調査事務局には宮崎県教育委員会文化課があたり、調査委員には、山口保明(県史編さん室主幹)・鳥集忠男(司法書士)・中武雅周(西米良村教育委員長)・山下正明(県史編さん室主幹)・矢口裕康(宮崎女子短期大学助教授)が、このほか二九名の調査員が調査に当たった。

 『宮崎県の民俗芸能』(平成六年)は、平成四、五年度に行われた調査を元に作成された報告書である。調査者には片山謙二・黒木亜美子・興梠敏夫・高橋政秋・中武雅周・原田解・矢口裕康・山口保明・渡辺一弘に加え、県文化課の前田博仁・那賀教史があたった。

 宮崎県の民俗芸能の概要のほか、詳細調査として次の民俗芸能が取り上げられている。
下北方六月踊り(宮崎市)・生目神楽(宮崎市)・青島臼太鼓踊り(宮崎市)・船引神楽(清武町)・田野雨太鼓(田野町)・巨田神楽(佐土原町)・城攻め踊り(高岡町)・ヨイマカ太鼓台(国富町)・唐人踊り(綾町)・曽我兄弟踊り(綾町)・田ノ上八幡の獅子舞(日南市)・風田の盆踊り(日南市)・広野のメゴスリ(串間市)・潮嶽神楽(北郷町)・谷之口てひ踊り(南郷町)・高木のベブドン(都城市)・新馬場の棒踊り(三股町)・中原太郎踊り(山之口町)・あげんま(高城町)・谷川の俵踊り(高崎町)・地頭踊り(高崎町)・山田バラ踊り(山田町)・細野の輪太鼓踊り(小林市)・西長江浦の大太鼓踊り(えびの市)・香取神社の打ち植え(えびの市)・狭野神楽(高原町)・東麓の兵児踊り(野尻町)・夏木の棒踊り(須木村)・石野田の臼太鼓踊り(西都市)・蚊口のじろま踊り(高鍋町)・新田神社のいぶくろ(新富町)・狭上神楽(西米良村)・お里まわり(木城町)・通浜の三尺棒踊り(川南町)・寺迫の奴踊り(都農町)・伊形の花笠踊り(延岡市)・永田のひょっとこ踊り(日向市)・門川神楽(門川町)・羽坂神楽(東郷町)・鬼神野のいだごろ踊り(南郷村)・島戸神楽(西郷村)・小原練り(北郷村)・上鹿川神楽(北方町)・家田の盆踊り・音頭(北川町)・市振神楽(北浦町)・釜の前チョイガマカ(諸塚村)・小崎の山法師踊り(椎葉村)・上田原の楽踊り(高千穂町)・大人歌舞伎(日之影町)・古戸野神楽(五ヶ瀬町)。ちなみにこの巻末には宮崎県内の民俗芸能の一覧表が掲載されている。